公開: 2021年5月7日
更新: 2021年6月3日
ここで言うキリスト教の倫理観とは、宗教改革後のカルバン派の影響を受けた、イギリスのプロテスタントに顕著に見られる倫理観である。そこでは、聖職者は神のために祈ることが重要であり、職業に就いている一般の人々にとっては、一生懸命に働くことが、それと同じくらい重要であるとする考え方に基づいている。これは、全知全能の神は、どの人が救われ、どの人が救われないかを知っている。しかし、全知全能ではない我々人間には、前もって自分が救われるかどうかを知ることはできない。人間にできることは、今の瞬間を大切にして、一生懸命に働くことだけである。それが、最後の審判で、神の審判を待つ人間が、自分が救われるためにできるただ一つのことであるとされている。
人間が一生懸命に働いた結果として得られる富は、それが目的ではなく、「救われること」を目的に働いた結果なのである。自分が働いて得た富を、むやみに浪費することは、「罪」である。つまり、浪費をする人は、救われない。そのため、自分が築き上げた富は、自分と自分の家族で独占するのではなく、余った富は社会に還元すべきであると考える。社会に還元する方法としては、貧しい人々を救うために使ったり、教会を建設したり、将来を担う子供たちが学ぶための学校、博物館、美術館などの建設と運営に投じることなどがある。オーウェンのような資本家は、労働者のための町づくりに、自分が工場経営から得た全ての資金を投入した。
カトリック教会は、人々が一生懸命に働き、富を蓄積すること(蓄財)を「悪」と見なし、人々が得た富は、教会に寄進すべきであると説いたが、教会を絶対視しないプロテスタントの人々は、得た富を蓄えること自体を「悪」とは見なさなかった。このような仕事とその成果としての富に関する考え方の違いから、北ヨーロッパに多いプロテスタントの国々に、資本主義が浸透し、産業革命が進んだと考えられている。
プロテスタントの倫理と資本主義の精神、マックス・ヴェーバー、岩波文庫、1989